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2話 朝から入ったクレームの電話は、くだらない揚げ足取りだった。|めぐみの家には、小人がいる。|滝川さり - 幻冬舎plus

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オカルトホラーの新星、滝川さりさんの新刊『めぐみの家には、小人がいる。』の試し読みをお届けします。

机の裏に、絨毯の下に、物陰に。小さな悪魔はあなたを狙っている――。

職員室では暖房が利いていたが、女性教員の中にはマフラーを巻いている人もいた。経費削減で設定温度が低い上に、古い建物なので隙間風が吹くからだ。

「おはようございます」

誰に向かってでもなくあいさつをすると、おざまぁす、と低い声が方々のデスクから返ってきた。月曜日は誰もが疲れた顔をしている。

鞄を椅子に置いて、そのまま給湯室に行き、コーヒーを淹れる。猫のシルエットが描かれたお気に入りのマグカップは、すさみかけた心を少しだけ癒してくれた。

デスクの上は紙束と児童のノートで埋もれていて、カップの置き場をわざわざ作らなければならなかった。隣の席の芝田涼子しばたりょうこが、あんパンを食べながら「おはよう」と笑いかける。

「おはようございます。今朝は冷えますね」

「山の上だからねぇ。明日から車通勤にしようかな」

芝田の視線は窓の外の校庭に向いている。正門付近では登校する子供たちの姿が見えた。驚くことに、半袖半ズボンの男の子もちらほらいる。親が無理に持たせたであろうマフラーを振り回して、何が面白いのかゲラゲラと笑っていた。

「見てるだけで寒くなるよ」

首に巻いたマフラーに顔を埋めるようにして、芝田はわざとらしくコミカルに震えた。年齢は三十九歳で、中学生の息子がいるという。物言いは冷淡だが実は面倒見がいいこの先輩教師に、美咲は好感を抱いていた。

(写真:iStock.com/kazuma seki)

「そうそう、これ、替えたよ」

芝田が掲げたのは、黄色い無地のマグカップだ。

「あ。……ありがとうございます」

「うん。もっと早くに言ってくれればよかったのに」

芝田は笑った。先週まで彼女が使っていたのは、マリメッコのマグカップだった。黒い丸がいくつも連なった人気のデザイン──美咲はそれが見るに堪え難く、先週の金曜日に、ついに伝えたのだ。

「トライ……なんちゃらだっけ? 大変だね」

「……はい。学生時代は、かなり落ち着いてたんですが」

「まぁ、そういうのは、ストレスでひどくなったりするから」

職員室の前方を横目で見つつ、芝田は小声でそう言った。

群集恐怖症──

集合体恐怖症とも呼ばれ、英語ではトライポフォビアという。小さな穴や点々の集合体に対して過剰な恐怖・嫌悪感を抱く症状のことだ。

美咲は、小学校の遠足の事件をきっかけに発症した。以来、音楽室の壁やとうもろこし、胡麻、蜂の巣などを見ると気分が悪くなり、貧血のような症状すら起こす。小学生の頃は「ウォーリー」の絵本を見て泣き出してしまった。中学生の頃からカウンセリングに通い、大学時代にはかなり症状が抑えられていたが……最近は明らかに悪化している。この前など、丸形のラベルシートを見て吐きそうになったほどだ。

そのとき、正門に立つ教師が「もうすぐ予鈴が鳴るぞぉ」と坂を上ってくる児童に声をかけ始めた。もうそんな時間か──マグカップを洗おうと椅子を引くと、いつの間にか教頭の白井清正しらいきよまさがすぐそばに立っていた。

「立野先生、ちょっとよろしいですか」

上品な白髪に柔和な笑み。年齢は五十代半ばだという。一見、紳士然としているが、実は自己保身に長けた曲者くせものだと、教員のほとんどが知っていた。

声のトーンからして、明るい話ではないだろう。嫌な予感はしていた。それでも立ち上がって話を聞く姿勢を見せると、白井は目だけで周りを見て少し逡巡したが、すぐにこの場で話しても問題ないと判断したらしい。

「今朝のことですが……中村さんのお宅の前を通りましたね」

「……はい。お母さんが見えて、ごあいさつしました。窓越しでしたけど」

「なるほど。いや、今朝がた電話がありましてね。そのときですが、向こうが言うには、先生が、まぁ、上着のポケットにね、手を入れていたとおっしゃってるんですがね」

予感は的中だ。美咲はため息をこぼしそうになって、ぐっと堪える。

「はい。入れていたと思います……けど」

代わりにため息を吐いたのは、白井だった。

「そうですか。……いえね、子供にはダメだと言うのに、教師はいいのか──そういうことを、おっしゃられていましてね。立野先生からぜひご説明いただきたいとのことでしたが、まぁ、そこは、うまくなだめておきましたので」

中村真奈が言いそうなことだった。さも怒っていないという風な話し方で、こちらが答えに窮するようなことを問い詰めてくる。たまらず謝ると、わざとらしくキョトンとした顔をして「いえ、謝罪ではなくご説明を」とさらに詰め寄ってくる。美咲は何度も経験したことだった。

「すみません……あの、ありがとうございます。教頭先生」

いえいえ、と白井は髭を剃ったばかりの顎を撫でた。

「ですが、今後は十分に注意してください。喜多野坂の住宅街には、うちの児童の家もたくさんありますからね。まぁ、こんなことで電話してくるのは中村さんくらい──」

言いかけて、白井は拳を口に当てて咳払いをした。芝居がかった仕草ではあった。

「……というわけで皆さんも、通勤途中の振る舞いには気をつけるように。どこで見られているか、わかりませんからね」

白井が職員室全体に呼びかけると、教員たちは皆、わずかな首の動きで返事をした。

美咲は脱力したように椅子に座る。

あのとき──中村邸の前を通ったときに、確かに手はポケットに入れたままだった。ポケットに手を入れて歩くなと学校では教えているし、事実、石畳が多くて転倒しやすい喜多野ではなおさら危険な行為だ。

しかしだからと言って、朝早くから学校にクレームの電話まで入れるほどのこととは、美咲には思えなかった。

いや、本当のところはわかっている。中村真奈もまさか、ポケットに手を入れていることが本気で許せないわけではない。ポケットのことがなくても、「庭をじろじろと見ていた」など別のクレームを入れられていただろう。

美咲は、担任クラスの出席簿を開いた。名簿の中に「中村天妃愛」の文字を見つける。これで「ソフィア」と読むのだ。と言っても、外国人の血が入っているわけではないらしい。異次元のネーミングセンスではあるが、最近では珍しくもない。

だから、初めて出欠を取ったとき──天妃愛の番になって言い淀んでしまったのは、決して笑ったからではなかった。前日の夜に児童全員の名前の読み方を確認して、それでも実際に静かな教室で声に出して読むとなったときに、喉がびっくりして一瞬声が出なかっただけだ。

しかしあのわずかな沈黙が、天妃愛に「名前を笑われた」という誤解を与えてしまったらしい。その日の夜には学校に猛烈な苦情の電話が入り、以来、美咲は中村家に目の敵にされてしまっている。誤解を解こうと努力はしたが、とにかく先方の怒りを鎮めるために奔走していた白井に弁明の機会を奪われてしまい、今や美咲が天妃愛の名前を笑ったというのは、ほとんど事実として扱われていた。

隣から腕が伸びて、何かを置かれる。個包装されたビスケットだった。

「朝からおつかれさま」

「あ……ありがとうございます」

芝田はパソコンの画面を見ていた。画面には、作成途中の『学年だより』が映されている。柿を手にニコニコと笑うリスの絵とは対照的に、芝田の表情は無表情だった。

「若いうちはなめられて当たり前だからね。一生懸命やってれば、そのうち何も言ってこなくなるよ」

そう言って立ち上がると、芝田は職員室を出ていった。

気がつくと担任を持つ教師はほとんどいなくなっている。美咲はビスケットをデスクの抽斗ひきだしに入れると、国語の教科書と出席簿、それから授業用のノートを持って職員室を出た。

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October 30, 2022 at 02:06PM
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